桐生祇園祭のはなし | 今の本町通を中心とした町並みは、天正19年(1519)から整い始めました。 人々が集まり定着すると祭は必ず始まるものです。 桐生の場合、記録上は明歴2年(1656)が最も古く起源としました。疫除神として牛頭天王(仏教の守護神)を祀り子供たちの手踊りで祈願しました。 商業都市として発達し、元禄2年(1689)に市神社を造営しました。そして三丁目の衆生院(現市営アパートの地)に神輿蔵を建設し、安永9年(1780)には市神社の神事と天王祭礼を一緒に行ってから一気に賑わうようになりました。 桐生祇園祭のルーツはここ三丁目にある訳です。 附け祭と云って山車や屋台の上に"なまず"や"牛若丸"など様々な飾り物を乗せたり、狂言などの芸術を楽しむようになりました。当初は中型程度の屋台でしたが徐々に大型化しました。 そして安政元年(1854)に、四丁目が巨大屋台を完成させた事により、安政6年には三丁目と五丁目が、そして一、二、六丁目も続き全六台が揃ったのです。 屋台の曳き違いという特色に、舞台での芸能(歌舞伎や狂言)の競い合いで夜通し人々は楽しんだのです。 明治維新が実現し、神仏分離の布告が出されました。仏教の守護神だった牛頭天王の神号は廃止され、素盞鳴尊となったのです。 京都の感神院祇園社が八坂神社と改めたため全国に広がりました。 桐生では明治3年(1870)に衆生院が廃寺となりました。 そして、八坂神社として、八坂祭典と改め再出発したのです。衆生院の跡地は山田郡警察署となり洋風建築が異彩を放ちました。明治も後期になってから美和神社の隣に西宮神社が建立されました。明治38年の落成です。そしてこの神社へ行くための新道が造られました(恵比寿新道)。警察署も手狭になったとの理由で八坂神社も移転する事になり、明治41年(1908)八坂神社は美和神社に合祀され神輿蔵を建設したのです。ここに安置されている神輿は現在五代目となりました。 明治末期には道路事情等で屋台の曳き違いは不可能となりました。戦後、昭和39年の「桐生まつり」の統合で旧八坂祭典附け祭は徐々に衰退していきました。 しかし平成元年に四丁目屋台が復活の旗を上げ、6年には桐生祇園祭と改名したのです。その翌年平成7年から一気に祇園祭が復興したのです。その間、四丁目鉾の巡行、曳き違い、各町屋台出し、鉾座そして翁蔵の建設で着々と進化しています。 惣六町並びに横山町で行う桐生祇園祭が名実共に関東を代表する祭りになる事を願っております。 |
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全六景 動く祭礼建築 | 桐生には江戸時代に制作された屋台が4台、明治が1台、昭和が1台、計6台が現存しています。 これらの屋台は舞屋台(まいやたい)とも、巨大屋台とも云い、両袖を広げると間口は約7.5m、高さは二階建てで約6.6m、奥行きは控えの間付で約6.4mというものです。 芸能好きの桐生人らしい趣向を凝らしたものです。大通りに出して巡行したり、曳き違いをしたり、夜通し歌舞伎や狂言や芝居を楽しんでいたのです。 又、この屋台は彫刻の美しさ、襖絵の豪華さ、扁額の書など三位一体の動く祭礼建築としても評価は高くなるばかりです。 最近の10年余りは鉾のみならず年番町が屋台を出し芸能を披露するなど、かつての関東三大夜祭りと称した時代が再現されています。 全国的にも例をみない桐生の祇園屋台は、組立てるだけで3・4日は掛かります。 近年では6年に1度回ってくる年番町が、屋台又は鉾を出して祇園祭の復活に努力しているところです。 |
一丁目祇園屋台
桐生で現存する屋台では最も新しく、昭和13年(1938)の完成です。しかし以前には江戸時代と明治時代の二度建造され、今は三代目と思われます。彫刻師は高松伍助、襖絵画家は前原五瀨、扁額は市河米庵の書によるものです。いづれも一流の顔ぶれが揃いました。
二丁目祇園屋台
明治35年(1902)の完成で、二代目の屋台です。彫刻師は高松政吉、襖絵は田崎草雲の弟子古川竹雲作、そして扁額は高林五峯の書です。平成17年(2005)には114年ぶりに屋台巡行を実施しました。道路が狭いにも拘らず、勇気のある快挙でした。
三丁目祇園屋台
安政6年(1859)に完成しました。彫刻師は石原常八(一・二丁目は常八一門)襖絵の画家は前原五瀨と瀬陽斎、扁額の書家は江戸で活躍中の中沢雪城と小野湖山。三丁目だけが千鳥破風で金塗りという桐生では珍しい様式です。何十年も組み立てることなく眠っていますが、近い将来が楽しみです。
四丁目祇園屋台
桐生で最も古く安政元年(1854)の完成です。彫刻師は名工岸亦八、襖絵は何とジーボルトに長崎へ同行した清水東谷、写真家として名を上げた作家です。又扁額は田口江邨の書です。特色は唯一の回り舞台付きです。野外で回り舞台を動かし歌舞伎が見られたら何という驚きでしょう。
五丁目祇園屋台
安政6年(1859)の完成です。彫刻師は岸亦八、襖絵は田崎草雲を模写した長沢時基の絵画ですが、背景などは金から銀へ変えながら個性を出したものです。(草雲作品は本町5丁目から足利に移った)扁額の書は中沢雪城と台陽山人。何といっても屋台前面には龍柱が施された豪華さは圧巻です。平成26年のまつりでは、昭和36年以来、53年ぶりにお披露目されました。